2011年6月9日木曜日

□安原備中守 〜石見銀山の全盛期を築いた功労者〜

岡山から歴史上に名を残している人材は多く出ています。古代史で活躍した人では、吉備真備、和気清麻呂、新たな宗派を開いた法然、栄西がいます。有名なところでは宮本武蔵や雪舟などがいます。ところで影に隠れた人物が多くいることも忘れてはなりません。5年前、世界遺産に登録された石見銀山の基盤づくりと全盛期を築いた功労者が岡山県出身者だったことはあまり知られていません。

その人は、早島町出身の安原伝兵衛こと安原備中守です。帯江銅山(倉敷市中庄)、吉岡銅山(高梁市吹屋)で鉱山経営と技術を磨いた伝兵衛は、安芸の毛利氏に乞われて石見銀山に赴きました。時は移り石見銀山は関ヶ原で勝った徳川家康の直轄地・天領になりました。伝兵衛は、初代奉行・大久保長安の片腕として石見銀山を最盛期に導いたのです。

観世音菩薩から夢のお告げがあって、伝兵衛が掘り当てた「釜屋間歩(まぶ)」が銀の大量産出をもたらし、京都・伏見城で家康公の謁見を許され、銀13.5トン(年貢)を献上した時、褒美として備中守の称号を与えられ、家康が着ていた胴服と扇子を拝領するという栄誉に浴したのです。石見銀山は年間38トン産出し、世界の産出銀の3分の1を占めていました。ポルトガルやアジア諸国との交易も盛んに行われていました。

梅雨の晴れ間の6月3日(金)。早島町の子孫を中心にした「安原備中守を偲ぶ会」がバスで石見銀山へ墓参りと史跡めぐりをしましたが、筆者も同行しました。現地のガイドの案内でまず世界遺産センターを見学しました。安原備中守のコーナーには、家康から拝領した「辻ヶ花染丁字文道服」(つじがはなぞめちょうじもんどうふく)などが展示されていました。

次は、最近一般公開された「大久保間歩(まぶ)」ツアーです。準備体操して山登り。長靴、ヘルメット、懐中電灯を装備して坑道に入りますと、すごい冷気が襲ってきます。半袖の人は入れません。コウモリが飛び交う高さ5メートルの巨大な坑道に圧倒されました。

墓所は、標高534メートルの仙の山頂上近くにあり難コースでした。杖を持ち命綱のロープにつかまりながら道なき道の急峻な山肌を一歩一歩踏みしめて登り切りました。一般の人は立ち入り禁止ですが、早島の子孫が墓参に来るというので、大田市役所が特別の計らいで事前に草刈りをしてくれていました。

墓は、400年の風雪にさらされているため、戒名が読みとれないほど黒ずんでいました。同行の僧侶の読経が流れる墓前で、花を供え線香を手向け、銀山王・安原備中守の遺徳を偲びました。安原伝兵衛がいたからこそ石見銀山が世界遺産になったのです。